MFCオーナーの映画ファイル

File 55

復活の日(1980年・日本)
監督: 深作欣二
音楽: 羽田健太郎、テオ・マセロ
出演: 草刈正雄、渡瀬恒彦、夏木勲、千葉真一、森田健作、永島敏行、ジョージ・ケネディ
     ステファニー・フォークナー、オリヴィア・ハッセー、グレン・フォード、ロバート・ヴォーン

角川映画のバブル決定版(おい)
荘大な原作、ハリウッドスターとの本格的なコラボ、南極ロケ等話題にはこと欠かなかった。
当時バラエティーという雑誌でしつこく特集をやっていたのを思いだす。
南極での座礁事故、ハリウッドスター達にこびることなくあくまでも日本式のスタイルで
撮影を進めていったスタッフ、各地ロケでのこぼれ話等、なかなか興味深く読んだ。

 
原作はこういう近未来のことを書かせたら天下一品の小松左京。
映画はDVDボックスが発売されたときも買ったくらいだから基本的には好きなんだけど
正直、説明的なテロップはよくない。
1年後、とかいうのはまだいいとしても、やたら状況を説明するようなテロップにはうんざりするな。
実際恥ずかしくなってくるのよね、あれ(爆)
 
役者さんは、日本勢は角川映画のおなじみの顔ぶれが多い。
特に南極隊はセリフとして英語をしゃべらないといけないんだけど、渡瀬恒彦の発音が、もろ日本語英語なのには笑った。(おい) 
それにひきかえ、夏八木勲がなかなか達者なところを見せてくれたのには驚いた。
ハリウッド勢もなかなかいい演技をしている。
とはいえ、ハリウッド勢も日本式の撮影スタイルには困惑していたらしい。
ま、簡単にいえば無茶苦茶なんだそうで・・・
スケジュールに沿ってもちろん運営されてはいるのだろうけど、とにかく朝から
夜遅くまでノンストップでがむしゃらに働きまくる、やくざな監督、鬼カメラマンと
あだ名がついた深作監督、木村カメラマンは無理難題ばかり押し付ける。
米大統領役のグレンフォードは、ハリウッドでもセリフを覚えられないので、カメラの
上あたりにカンペをはりつけてそれを見ながら演技するらしいのだけど、それを
認めず、泣かせたらしい。(苦笑)
まあ、当時は今以上にハリウッドなんて夢の世界だたんで、あくまで日本を貫いた
スタッフ達は男気があったんだろうなあ。なめられるかい!みたいな。
 
映画は前半はいわゆるパニックもの。細菌が世界中に広まり、パニックになるひとたちを描く。
後半戦は南極に取り残されたの生きざまや様々な生き抜くうえでの問題を描く。
そこに核ミサイルの発射を防ぎに行くというアクションが描かかれ、だれないようになっている。
前半戦で衝撃的なのは、死体の山を焼くところかな、いやー直視の耐えられませんわ。
後半戦は男女比が100対1ということで、種の保存を優先するということで、女性は誰とでも受け入れざるをえない、という実にありえそうな話。
原作者の小松左京の洞察力、発想力には完敗だな。
 
で、映画は賛否両論のラストへ。あの草刈り正雄旅行記だ(爆)
まあ、放射能うずまく世界を歩いていけるわけない、チャリンコくらいあるだろう、とか
色々リアリティーにかけるというのが大半の意見。まあ、そうですな、というしかない。
あれで、パニック映画がメロドラマになり下がったという意見にもうなずかざるをえない。
まあ、絵的にはなかなか感動できるのだけど。
ラストのライフイズワンダフル、というどこかで聞いたようなとってつけたセリフはいらなかったな。折角の余韻に浸れないではないか。
ま、そのあとちょいと引いた絵になったときのオリビアハッセーの演技が泣かせる。
一瞬しか見れないんだけど。
 
主題歌はジャニスイアンの歌うユーアーラブという実にいい歌。
シングルをあんまり買わない自分が思わず買ったな。名曲です。
この曲をバックに写される南極の見事なシーンは本物だなあ、と納得させられる。
日本沈没や戦国自衛隊みたいなリメイクはやめてね。

<いまちさん 投稿日2008.8.2>


File 56

落陽(1992年・日本)
監 督: 伴野朗
音 楽: モーリス・ジャール
主題歌:エラ・フィッツジェラルド
出 演: 加藤雅也、ダイアン・レイン、ユン・ピョウ、ドナルド・サザーランド、中村梅之助、中村梅雀
      室田日出男、金田龍之介、にしきのあきら、芦田伸介、田村高廣、水野晴郎

巨額の予算を注ぎ込んで製作されながらも興行・作品の評価ともども惨憺たるものに終わり、社名がひらがなだった頃の「にっかつ」にとどめを刺したといわれている作品。日活としてもあまり触れられてほしくない過去なのか、比較的最近の作品にもかかわらずいまだにDVD化されていない。内容はというと、訳あって関東軍を追われた元・青年将校賀屋達馬(かや・たつま。演:加藤雅也)が、石原莞爾命を受けて関東軍の闇資金作り(アヘンの密売)に奔走する一大ピカレスク冒険活劇…の、はずである。

や、今までにこれ何度も見てるはずなんだけど、いまっだに全体像がつかめない話なんだよね。最初仲間だったスターにしきの演ずる満州浪人が裏切ったり、ユン・ピョウ率いる中国マフィアやら地下組織だった頃の共産党やらが入り乱れていろいろやってるんだけど、見事にメリハリも盛り上がりもない。今まで僕がここで紹介してきたのは、そのほとんどがちょっとアレな映画ばかりだったけど、こればっかりはちょっと弁護のしようがない。完膚なきまでにダメな映画だ。

とはいえ、周囲のある種の勘違いがこの映画に対する酷評を煽った面もあると思う。
つまり、本作が「にっかつ創設80周年記念作品」であり、扱っている題材が戦時中の満州や中国ということもあって、自然と周りが何か過去の歴史に対する何がしかのステートメントというか、ひとつの見解が映画の中にメッセージとして込められるのではないか?と期待をしていた節があるのだ。加えてロマンポルノに転向してからこの頃までのにっかつの社長は労組出身(つまりは左寄り)ということもあって、文芸春秋あたりは手ぐすね引いて公開を待っていたらしい。

しかし、ふたを開けてみたら実態は時代錯誤なチープそのものの日活アクション。しかも出来は最悪というわけで、文春の記事も行間が失笑でいっぱいだったのを今でも覚えている。それも無理もない。なにしろ原作はカッパノベルスの小説なのだから。光文社には悪いが、そんな小難しいことを考えて接する作品じゃないのである。せいぜい主人公とは合わせ鏡のような人生を送る満鉄職員(中村梅雀)がいるくらいだ。その点、淀川長冶さんはわかっていた。寄せたコメントの見出しが、「さすがにっかつ、80年の貫禄!!」貫禄という言葉はあくまで見た目のみを指す言葉で、その中身についてまで言及するものではない。

それに、作品中には日活栄光の時代を彩ったスター達が続々と登場する。…登場する…が、そのほとんどの出番が1シーンのみのキャメオ出演であり、正直出てきても「誰?」っていう人が多い(高品格に到っては本編に入り切らず、エンディングの合間にチラッと映っている程度。しかも暗がりのシーンなのでよく見ないとわからない)。主人公らと並んでポスター等に大写しになっている名優ドナルド・サザーランドにしてもそうで、中国マフィアの手先として、小牧ユカ演じる満州の大物の娘(はね返りで、共産党のスパイになっている)を誘拐し、アヘン中毒にして尋問する、ただそれだけの役だ。出てくる必然性もへったくれもないのである。

その中で以下の三名はきっちり存在感を出してくれた。

立川談志。ちょっと伝言をするだけの町の床屋役。コントでもありがちな役で違和感なし。

宍戸錠。内モンゴルの豪族役。中国マフィアとつるんで賀屋たちを罠にかけ殺そうとする。銃撃戦での暴れっぷりは、まさに水を得た魚。死に様にもやり切った感が漂う。文句なし。

水野晴郎。山下将軍役。そう、「シベリア超特急」シリーズでおなじみの山下将軍を水野氏が最初に演じたのが、この作品なのだ。その演技?は当然のように、本作ですでに完成している。というか、氏の出演シーンだけ全く別の作品というか、「シベ超」シリーズから切ってきて貼り付けたとしか思えない。さすがである。

せめて主人公・賀屋達馬にはこの三人にその存在感で勝ってもらわなければ、本作に見る人を引き付ける力なんて生まれないだろう。アクションの切れではユン・ピョウにかなわないんだから。加藤雅也じゃ無理だ。このめちゃくちゃな物語…になり損ねた、にっかつからの映像]を締めるには、勝新ぐらいでないと務まらない。

それでも三時間半もあるこの映画を機会がある度に見てしまうのはなぜだろう?一体何が僕を引き付けるのだろう?

それは、この映画そのものが「見果てぬ夢」だからに他ならない。

オープニングとエンディングで流れる、「別に資料映像みたいなんでもいいんじゃない?」と思うような万里の長城やら馬の群れが駆ける草原やらの航空映像を見るたびに思うのだ。

日本映画界の名門・日活が本当に名門らしい名門だったのは戦前に時代劇を撮っていた頃までで、それ以降の歴史は常に浮き沈みの激しいものだった。要するに製作現場は常に貧乏だったわけだ。

そんな中、いつもギリギリの予算で、元祖Vシネマなアクション物を撮っていた当時の「カツドウヤ」達は酒の席でこんな話をして気勢を上げていたのではないか。

「ちきしょう、金さえあればもっとすげえ映画撮ってやるんだがなぁ…いいか、舞台は満州だ、関東軍のスパイと中国マフィアと共産党とが入り乱れての大活劇!いなせな日本男児に寄り添うヒロインはハリウッドの綺麗どころだ、どぅだ、でけぇ話だろう…。」

そんな願望というか妄想が、彼らの作った作品を見て育った作家の小説という宿主を見つけ、まかり間違って実体化してしまったのがこの作品なのではないか。そう思えてならないのである。確かに邦画史上に残る禍々しい作品には違いないのだが、どこか無垢な感じがしてしょうがない。

不幸だったのは、それをひとつに纏めて締める存在がいなかったからではないか。

そう、この作品「監督が事実上いない」のだ。

本作の音楽を担当したモーリス・ジャールは、後に受けたインタビューで、困惑したコメントを残している。

「ロウ・トモノ(伴野朗)?そんな名前は知らない。監督だって?私の元には監督はXX(誰でも知っている有名な人物らしい。当然?非公開)が務めると聞いたし、彼がやるのならと私も仕事を受けたのに」

伴野朗とは、本作の原作となった小説の作者である。すでに亡くなっているが、映画の監督を務めたのはこれ一度きりだ。つまりズブの素人である。一体何がどうして、こうなってしまったのか。その某有名監督は途中で降りたのか。それとも、この映画を撮れるのは、あの「見果てぬ夢」を共有する同志でなければならなかったのか。そして数十億ともいわれる未曾有の予算は、どこへと蕩尽していったのか?エンディングに堂々と横たわる落日の映像は何も語ろうとはしない。確かなのは、その落日はにっかつ自身のそれでもあったことだ。

そしていまだすべては闇の中のまま、邦画史上のブラックホールとして本作は長く、深く影を落としている。あなたの近所のビデオ屋の片隅にも、それはぽっかりと口を開けているかもしれない。現代の邦画が少なからず失った、胸にへばりつく脂(やに)のような、鈍い艶を湛えながら。

P.S.本作のVHSビデオでは、本編の前後に同じころににっかつが出していたビデオの予告編が入っていた。遅ればせながら参入したVシネマ(首都高、峠の暴走もの)、「世界の残虐映像」、そしてアメリカのプロレス…この微妙なセレクションもまた、時代の証言者である。

<fxhud402さん 投稿日2008.8.17>


File 57

容疑者Xの献身(2008年・日本)
監 督: 西谷弘
音 楽: 福山雅治、菅野祐悟
出 演: 福山雅治、柴咲コウ、北村一輝、松雪泰子、堤真一、ダンカン、長塚圭史、金澤美穂、益岡徹
      林泰文、渡辺いっけい

読んでから観るか、観てから読むか。どちらでも、人それぞれである。原作が優れていればいるほど、映像化された作品は絶対観ない、という人もいる。映画観て面白かったからといって、原作を読む事はまずない、という人もいる。原作と映画、どっちが面白かったか、でも意見は割れる。小説としては今イチでも映像向きの素材もある。中には、原作を読まない方がいい場合もあったりする。

ま、それぞれ意見はあるが、映画化されて原作を超えたケース、というのは少ないように思われる。原作のイメージを損なわない出来であれば大成功であり、そうでなければ、小説と映画は別物と受け取るしかない。原作を読んで面白かったと思うのなら、映画化されても観ない方が賢明なのかもしれない。

と、うだうだ書いているが、この『容疑者Xの献身』、これは東野圭吾の原作と同等の映像作品に仕上がった稀有な例かもしれない。小説自体が、東野圭吾の5本指に入るであろう傑作だし(この人の凄い所は、生涯の傑作と言ってもいい小説を、いくつも書いていることだ)、その小説をフツーに映像にしていけば、やはり面白い物が出来上がるはずなのだ。そう、この映画の成功の要因は、原作に忠実に映画化したことにある。

昨年(2007年)から、福山雅治・柴咲コウ主演で、東野圭吾原作の『ガリレオ・シリーズ』がテレビドラマ化され、人気を博したという事もあり、同様にガリレオこと湯川学が登場する『容疑者Xの献身』の映画化に当たっては、やはり福山雅治主演と宣伝されている。しかし、あくまでもこの『容疑者Xの献身』の主役は、堤真一演じる天才数学者・石神哲哉と、松雪泰子演じる花岡靖子である。テレビの『ガリレオ・シリーズ』は観てないので何とも言えないが、おそらく映画は違った作りになっているはずだ。福山ファンの方は、そこいらを了解した上で観て頂きたい(笑)

ストーリーはご存知の人も多いだろう。石神が、アパートの隣室に住む花岡母娘が犯した殺人の隠滅を買って出る話だ。彼は母娘を警察の捜査の手から守る為、一世一代のトリックを考え出し、完全犯罪は成功するかに見えた。が、ここで登場してくるのが、石神の大学時代の友人、湯川である。本作は、天才同士の知恵比べが根幹を成すミステリー(謎解き)なのだ。トリックも秀逸、堤と福山の好演もあり、徐々に謎が解き明かされていく緊張感は実に見事。単なる謎解きドラマとしても一級品である。

しかし、それだけではない。小説『容疑者Xの献身』を傑作たらしめているのは、トリックの秀逸さもさることながら、何故石神はここまでして花岡母娘を守ろうとするのか、という一点にある。石神が花岡靖子に好意を持っていたのは確かだろう。しかし、それだけの事で、犯罪に手を染めることが出来るのか。愛する者の為なら、犯罪者として投獄されることも厭わないものなのか。石神の本心はどうなのか。原作には、「人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある」という一行がある。

こういう、本人でなければ答えの出ないテーマがストーリーに絡んでくるからこそ、深い読後感が残るのだ。もちろん、映画でもその答えは出ない。石神自身も自ら語ろうとはしない。ただ、そこにあるのは、石神が花岡母娘の犯罪を隠蔽しようとした、という事実だけだ。この事実だけで十分なのか。トリック以上の謎。追求する側がやり切れなくなる展開。湯川の“僕がこの事件の真相を暴いても、誰も幸せにはなれない”という言葉が重い。

このあたり、堤と福山が見事な演技を見せる。特に堤真一だが、個人的には原作を読んだ時の石神のイメージと、かなりかけ離れているので、大丈夫か、なんて思ったけど、予想以上に素晴らしい。生気のない表情といい、猫背気味に歩く姿といい、人生に疲れ絶望した中年男を見事に演じている。時折見せる天才数学者の片鱗、ま、目の輝きとか表情とか、そういうのもまたいい。やつれた中年だけど、まだ切れ味はある、みたいな感じがよく出ていたと思う。

花岡靖子役の松雪泰子も良かった。殺人を犯して動揺し、石神にすがってしまうものの、この先石神に従属して生きていかねばならないのか、と恐怖を感じるようになる訳だが、そんな身勝手さもいい感じ。石神が逮捕された後、ひたすら悩む部分が映画では短かったのが残念だが、ここいらの葛藤をどう表現したのだろうか、なんて興味も持たせる好演である。ただ、本人には責任ないけど、花岡靖子自体が小説とは少しイメージが違ってて、質素な生活をしてるような印象だったけど、部屋の中は物がいっぱいあったし、母娘でWiiで遊んでるし(笑)、原作では弁当屋で働いている設定だけど、映画では弁当屋のオーナーになってるし、もうちょっと薄幸な女性を演出してもよかったのではないか、なんて思ったりもした。どうでもいいことだけど(笑)

ま、そんなこんなで、実に深いドラマである。原作だけでも十分だけど、映画を観ると、そのテーマの深さがより一層伝わってくるような気がする。映画化は成功だった。悲しい作品ではあるが、石神の想いは十分に伝わってきて、久々に、観ていて泣きそうになってしまった^^;

「私のことはすべて忘れて下さい。決して罪悪感などを持ってはいけません。貴女が幸せにならなければ、私の行為はすべて無駄になるのですから」(石神が靖子に送った書簡より)

2008.11.3


File 58

インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国(2008年・アメリカ)
INDIANA JONES AND THE KINGDOM OF THE CRYSTAL SKULL
監 督: スティーブン・スピルバーグ
音 楽: ジョン・ウィリアムズ
出 演: ハリソン・フォード、シャイア・ラブーフ、レイ・ウィンストン、カレン・アレン、ケイト・ブランシェット
     ジョン・ハート、ジム・ブロードベント、イゴール・ジジキン アラン・デイル

別に製作してもらわなくてもよかったんだが(おい)4作目である。ま、今回で終わりでしょう。
映画館に行く気にはなれなかったので、一般作になりさがったDVDをレンタル(こら)した。
ちなみにウェアハウスでは一般作は現在2泊3日でも¥90.-である。(一週間でも¥170.-安い!)
映画公開時から全くの前情報も何もチェックしてなかったので、まっさらな状態で観た。
ま、役者さんは年をとるので、そのあたりは全然問題なし。ハリソンフォードは公開時は60代半ばだったらしいが、動きも軽いし努力したんでしょうな。
 
色々なアイデアはやっぱこの製作陣はすげーなーと思うし、さすがは超一流どころであると感心もする。
で、ストーリーはさくさく進むのだけど、どきどき感がまるでない。
まあ、インディーはなんだかんだといって最後には収まるからお約束はいいんだけど、どーも前の三部作にあったようなどきどき感が全然感じられんのはなんでなんだろう。
これは映画館に行く気にもなれなかったという理由と直結してるんだな。
 
レイダースに始まるインディーシリーズは、当時・当時の最新技術を使ってたのは間違いないけど、手作り感があった。メイキングとか観るとおおがかりなセットを作ったりミニチュアでうまく仕上げたり、というアイデアで見せてきたというのはあったと思うんだけど、いまやなんでもCGで出来るんである。
どーもその辺がねぇ・・・まあ、頭が古いといわれるかもしれんが、バックトゥザフューチャーなら、今のCG技術でまた製作してもいいと思うんだけど、インディーはなあ・・・
もちろん、それに頼ることなく作ってるとこも一杯あるんだけど、なんか違うのよねぇ。
 
で、今回の舞台は南米で、いまだに謎の多いマヤ人関連でそのあたりはいいんだけど、ナスカという地名がでてきたとき、ヤな予感がした。
以前は世界最大のオーパーツみたいに思われてたけど、今やその謎も解明されてるわけで、まさか宇宙人をネタにするんじゃないだろうな、なんて思ったら案の定である。
クリスタルの頭蓋骨もオーパーツとして有名だけど、今では当時の技術でも製作できるとされている。
マヤ人の頭の形の件にからめてるのはまあいいとしても、あれはねーだろ、と思う。
インディーシリーズってどっかに人間を超えた何かのチカラ、みたいなもんがからんできて、それが古代の伝説とか神話とか聖書とかに説得力を持たせてて、観てるほうもなんとなく納得してしまうのだけど、今回の結論は宇宙人である。
そこが一番気に入らない。
別に宇宙人の存在を否定はしないけど、ラス前でのスカルが戻るシーンはもうインディーではない、SFである。
そこには古代の伝説や神話とかいったものへのロマンが全部御破算になっている。
特典映像も観たけど、今回はエイリアンでいくとジョージルーカスはスティーブンスピルバーグに、当初言ったそうだが、なんだかなあ・・・
スピルバーグも、それなら絶対やらないとはっきり否定し続けて欲しかったな。説得に負けるなっつーの。
それから役者さんが力量とか演技とかは別にして、魅力的に思うひとがあんまりいない、というのも痛い。(個人の意見です)
これがインディーシリーズのラストになってしまうのかと思うとちょっと悲しい。

<いまちさん 投稿日2009.11.27>