MFCオーナーの映画ファイル

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ジーザス・クライスト・スーパースター(1973年・アメリカ)
JESUS CHRIST, SUPERSTAR
監督: ノーマン・ジュイソン
音楽: アンドリュー・ロイド・ウェバー、アンドレ・プレヴィン、ハーバート・スペンサー
出演: テッド・ニーリー、カール・アンダーソン、バリー・デネン、ジョシュ・モステル、ボブ・ビンガム

「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」を見て

「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」があるブログで紹介されていました。
私は、この映画をまだ見たことがなかったのですが、興味をもち、レンタルビデオ屋さんで見つけて、見ることができました。
とてもいい映画だったので、私なりに、感想・・・感じたこと、想ったこと・・・を書いてみました。

「JCS」について、私が知っていたのは、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」「私はイエスがわからない」くらいでした。映画のビデオをレンタル屋さんで見つけて借りましたが、劇場でのミュージカルも見たことがないので、比較することはできませんが、多分、映画独自の演出がされているのだろうと思います。
オープニングは、現代(当時)のファッションの若者達を乗せたバスが、砂煙を上げて失踪しているところから始まります。映画がイエスの時代の話だと思い込んでいたので、これを見て、現代の話なんだと、意外な気がしました。バスの車体には、アラビア文字のような字が見えます。それとも、ヘブライ文字なのでしょうか。

どこから来たのか、彼らが何者なのか、説明無しに、古い石造りの神殿の廃墟のようなところに、鉄パイプの足場があるところで、若者達は劇の小道具や衣装を運びおろします。
ここまで見て、あぁ、イエスの時代の話は劇中劇なのか、と気が付きました。

ユダ役の役者さんの帽子に何か文字が書いてあって、それが気になって一時停止にして、読み取ろうとするのですが、はっきり読めませんでした。何か意図があって、その文字が画面に映されたのだと思うのですが、一体何が書いてあるのでしょうか?

そして、自然な流れで劇中劇が始まります。劇中劇の世界は、イエスの時代であるのに、武器やセットなどは、現代の物が見られて、現代とイエスの時代とが、リンクしていることが感じられます。それは、真実はどの時代にも一つであると言うことを示唆しているように、私には思えます。
通奏低音のように、一貫して問われているのは、「イエスは誰なのか。イエスは何をしたのか。」という質問でしょう。

ユダは、イエスが、人々から熱狂的に支持されて、宗教者、政治家、ローマ帝国から、目をつけられるのを心配していました。ユダはユダなりにイエスを愛していることが、観客には分かります。
遠藤周作さんの「イエスの生涯」においては、政治的指導者として、イスラエルのローマからの解放者として、熱狂的にイエスを支持していた民衆が、実際は宗教的指導者であるイエスに失望し、十字架の死に追いやったと解釈しています。その本では、ユダも政治的な考えのないイエスに失望し、裏切ったと考えられています。

しかし、「JCS」においては、ユダは、イエスと民衆との思いの乖離に早くから気付き、それを心配しています。ユダは、冷めた目で、熱狂的な弟子達、民衆を見ています。
登場人物の中で、私がどうしても気になるのは、ユダです。多分、現代人は、ユダと同じ悩みを持っているでしょう。シモンのように、熱狂的にもなれず、どこか覚めた目で見てしまいます。
イエスの姿を、人々が熱狂の中で見失うように、私も、人の感情で流されがちです。
最近「ユダの福音書」と言うものが、発見されたそうです。真偽の程はわからないが、ユダにも救いがあってほしいと思う人は多いのではないでしょうか。

マグダラのマリアは、聖書の中の女性では、特に印象的な存在です。
最近のベストセラー「ダ・ヴィンチ・コード」でも、イエスのパートナーとされています。
映画では、香油を額に塗ったり、足を洗ったりする姿が見られますが、聖書では、香油でイエスの足を洗い、自分の長い髪でぬぐうという、かなり官能的な印象の行為が記されています。
彼女がloveと言うとき、恋愛感情なのか、宗教的な憧憬なのか、男女間の間柄なので、微妙な気がします。

ペテロの否認については、映画では日中の出来事ですが、聖書では、これは夜のことで、イエスの「鶏が鳴くまでに、3度、私を知らないというであろう。」という言葉の意味を、鶏の時の声を聞いた時悟る、というドラマティックな展開になっています。
有名なこの「鶏の鳴くまでに」というエピソードが省略されているのは、ちょっと残念です。

この映画で気が付くのは、年配の人が出てこないということです。
イエスの公生涯(30〜33歳)には、父ヨセフは亡くなっていましたが、母マリアは生きていて、聖書では、何度か登場します。マリアはカトリック信者にとっては、特別な存在なので、あえて映画では扱わなかったのか、または、イエスの世代(若者の世代)と子供に、登場人物を限定したかったのか、どうなのでしょうか。

ゲッセマネの園での、最後の晩餐と場面は、イエスと弟子達は、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵のポーズをとって、一瞬静止します。
弟子達が「使徒になって、引退したら、福音書を書く」と歌うところは、その後の弟子達が迫害を受けるその後のことと、そして、弟子達が、何も悟ってなくて、その後の十字架刑のとき、イエスから離れていくことを、見ている者は知っているだけに、少し皮肉を感じます。

カヤパ、ポンテオ・ピラト、ヘロデは脇役として重要な存在です。
カヤパや祭司たちの黒い衣装や、足場に乗っている様子はカラスを連想させます。
ポンテオ・ピラトは、イエスを無罪としながらも、民衆におされて、十字架刑に処したという、弱さを持った人です。
ヘロデの歌と踊りは、小憎らしい感じなのに、頭に残る楽しい曲です。なんとなくお調子者の感じが曲にもよく出ているように思いました。

十字架処刑後、劇中劇は終わり、キャストたちが普段の格好にもどり、バスに乗り込みます。
しかし、イエス役の青年はいません。
このエンディングは不思議です。
もしかして、熱狂の中で、一人の人を処刑してしまったのか、または、キャストの若者達が、イエスの時代にワープして、十字架の処刑に立ち会ったのか・・。
過去と現在がつながっていることを感じさせます。

イエス役のテッド・ニーリーは、アップの時、cross-eyed気味の瞳で、眼光鋭くきっとにらみつけるようなものではなく、どこか彼方を見ているような、夢見がちな眼差しです。
他のキャスト、弟子達、兵士達より、頭一つ背が低く、華奢な体つきなのも、神の子なのに、弱さを感じます。
頼りなげで儚げな彼の姿は、イエスの孤独感を感じさせます。
神に対する時も、父と子という親密さより、むしろ、神と預言者との関係に近い感じがします。
そのあたりは、聖書より、神と人との対立を感じます。

遠藤周作さんの「キリストの誕生」では、イエス処刑後、どういう風に弟子達が、「イエスは、本当は誰だったのか、何をしたのか。」を悟り、伝道者に変わっていく姿が、書かれています。
この映画のテーマ、「イエスは誰だったのか、何をしたのか。」は、私たち一人ひとりに問われています。
その点で、この映画は昔の映画ではあるが、古さを感じさせません。
音楽も印象的で、心に残る作品でした。
本来の劇場でのミュージカルだと、また違うところもあるのだと思います。
それも見てみたいなぁと思わせるくらい、後を引く魅力がありました。

<那由他さん 投稿日2006.8.31>


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硫黄島からの手紙(2006年・アメリカ)
LETTERS FROM IWO JIMA
監督: クリント・イーストウッド
音楽: クリント・イーストウッド
出演: 渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、松崎悠希、中村獅童、裕木奈江

実を言うと、僕はいわゆる戦争映画が苦手だ。特に、戦場・戦闘或いは軍隊を舞台・テーマにした映画。何故苦手なのかというと、おそらく第二次世界大戦を舞台にした実録物は登場人物も多いし(実際、かつての『史上最大の作戦』『パリは燃えているか』『遠すぎた橋』などの実録戦争物は、オールスターキャストの代名詞でもあった)分かりにくかったのだろう。それに人が死ぬ場面がやたらと多いのも、理由のひとつだろうと思う。ハリウッド映画だと、戦闘で人が死ぬ場面も割にカラッとしてるイメージがあるが、日本映画では、どういう訳かひどく生々しく感じる。あそこで倒れた名もない兵士は、骨を拾って貰えるんだろうか、なんてふと考えてしまって、鬱々たる気分になってしまうのだ(笑)

もちろん、戦争映画だけど、実際の戦闘とは違う場面で展開する映画、例えば『大脱走』とか『戦略大作戦』みたいなのは好きだ。ま、こういうのは、戦時中とはいえ、フツーのアクション映画と同等に捉えてもいいのかもしれないが。それと、興味深いのは、ハリウッド映画でも、第二次世界大戦を扱った映画と、ベトナム戦争を扱った映画とでは、全く印象が異なること。前者は、済んでしまったことという意識があるのか、史実に基づいて当時を再現しながらも、戦闘を賛美或いは正当化しているような感じがするが、後者は全く逆だ。戦場が生む狂気や不条理を執拗なまでに暴き出し、戦争そのものを完全否定している。やはり、ベトナム戦争はアメリカの巨大な病巣だった訳で、それが進行している中で作られただけに、戦争を批判する方向に向いてしまうのだろう。多くのアメリカ人にとって、第二次世界大戦は正しく、ベトナム戦争は間違っていた、という事になるのか。どう違うんだろう?(苦笑) いずれ、イラク戦争を主題にした映画も作られるだろうけど、どんな視点で戦争を描くのだろうか。

さて、前置きが長くなった(笑) 久々に劇場で見た『硫黄島からの手紙』、はっきり言ってあまりお薦め出来る映画ではない。もちろん、つまらないとかくだらないとかいうのではない。それどころか、極めて質の高い映画である。お薦めしないのは、この映画があまりにも重く暗いからだ。デートの時に見たりすると、せっかくのデートが台無しになってしまうだろう。タイトル通り、第二次世界大戦中、硫黄島で戦い死んでいった日本兵たちを描いている訳で、セピア色の画面、一言一言があまりにも重いセリフ、国の盾となって死んでいく兵士たちの姿、全てがヘビーな後味を残す。あまりにもやるせなく、悲しく、そして救いようのない場面とセリフの連続。救いは、ミョーなセンチメンタリズムや教育臭が感じられないことくらいだろう。そこいらは、やはり監督がアメリカ人だからであろうか。

そう、このような、あまりにも日本的な戦争映画を撮ったのが、アメリカ人であるクリント・イーストウッドである、というのが衝撃である。予備知識なしで見たら、誰でも日本人による日本映画だと思うだろう。セリフは全て日本語だし。ご存知の通り、この映画は同じくイーストウッド監督の『父親たちの星条旗』と対になった作品であり、硫黄島の戦いをアメリカ側の視点で描いたのが『父親たちの星条旗』、日本側から見たのが『硫黄島からの手紙』という訳だ。この2本の映画を撮るにあたって、イーストウッド監督にどういうコンセプトがあったのかは知らないが(それを知るには、『父親たちの星条旗』も見るべきなのだろう)、よく日本を知ってるなぁ、という気がする。当時の日本情勢や日本人の心理など、失礼ながらアメリカ人にここまで日本人が理解できるのか。玉砕の意味が本当に分かってるのか。銃後の日本での細かいエピソードなどにも触れられており、ただただ感心するしかない。前述したように、セリフはオール日本語な訳で、イーストウッド監督が日本語理解できるのかどうか知らないけど、演技指導とかどうしたんだろう。台本のチェックとか。そんな、アメリカ人監督が日本人と同様に、いやもしかすると日本人以上に日本を理解し、日本人の琴線に触れる映画を作ってしまった、という事にひたすら驚いてしまうのだ。この映画を見るべきは、アメリカ人ではなく日本人なのかもしれない。

これも前述したけど、描き方はきわめて淡々としている、と言っていいと思う。ミョーな感情は入ってないような気がする。でも、だからこそ、その生々しさがやりきれないのだ。特に、兵士たちが観念して自決するシーンとか。ハンパなアメリカ人なら、これを戦場の狂気とでも言うのだろう。いや、そんな単純なもんじゃない。戦場でロシアン・ルーレットに興じるのと一緒にしないでくれ。少なくとも、イーストウッド監督はその辺は分かってる。死を軽く考えているのではない。お国の為に命を投げ出す、捕虜になる事を潔しとせず、自決を選ぶ日本人。やりきれないけど、それが日本人なのだ。外人には分かるまい、とずっと思ってたけどね。

この『硫黄島からの手紙』、聞いた話だと当初『父親たちの星条旗』に比べて、アメリカ国内では上映も遅く、また上映館も圧倒的に少なかったらしい。が、日本での評判が伝わって、予定より早く封切られ、なんと先ごろ発表されたアカデミー賞のノミネートで、作品賞・監督賞など4部門にエントリーされたそうな。『父親たちの星条旗』はノミネートゼロだというのに。なにか、アメリカ人の心を動かすものがあるのだろうか、この映画には。どこからどう見ても日本映画なんだけど(しつこい)。

ま、とにかく、重く暗い映画である。見ていて、やりきれない思いになるのは間違いない。渡辺謙、二宮和也といった俳優たちが好演であるだけに、余計にやりきれない気持になる。やっぱり、戦争映画は嫌いだ(笑)

2007.1.26


映画館へはあまり行かないのですが、年に一回くらいのペースで映画館で映画を観ます。

前回観た映画は「バルトの楽園」。
そして、今回はクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を観ました。

どちらも戦争がベースになっている映画ですが、バルトの楽園はドイツの音楽という文化的なものが日本人とドイツ人の心を結ぶ結末で、悲しい場面もありますが笑える場面もあり、最後は爽やかな気持ちにさせてくれる映画でした。
でも今回の映画は、ただただ、もうずっしりと重くて悲惨な映画で、観終わったあとも暗い気持ちを引きずる映画です。

そしてやはり何があっても戦争だけは起こしてはならない…そういう気持ちを残してくれる反戦映画です。
戦闘シーンや自決シーンでは思わず目を覆いたくなるような場面が出てきます。
あまりにもリアルに血や肉が飛び散るシーンがあるのですが、映像がモノトーンで表現されているのがせめてもの救いでした。

その過酷な戦場で家族へ宛てた手紙を書いているシーンを観ていると、愛する家族と離れ離れに暮らさなくてはならない運命は、なんて残酷なのかと胸が痛みます。。。 (T_T)

人間にとっては本来は尊い行為であるはずの“情けをかける”という行為。
それをしたが故に痛い目にあう、辛い思いをする…憲兵のそんな場面を観ていると、とても切なくてやるせない気分になりました。

この映画はハッピーエンドに終わるわけではなく、かなりリアルな場面があって、精神衛生上よくありませんが、監督が外国人なのに当時の日本人の心情をうまく演出しているなぁと思わせるし、「お国のために命を捧げるのが美徳」だとされていた誤った精神論が、なんの価値もない戦争を引き起こしていたのだ、ということを再認識させてくれるいい映画だと思いました。
   
最後に渡辺謙はもちろんですが、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童の熱演もそれぞれの役柄に合っていて良かったです。
特に二宮君の演技はお見事でした。


<ながれ☆さん 投稿日2007.1.27>


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アイガー・サンクション(1975年・アメリカ)
THE EIGER SANCTION
監督: クリント・イーストウッド
音楽: ジョン・ウィリアムズ
出演: クリント・イーストウッド、ジョージ・ケネディ、ヴォネッタ・マギー、ジャック・キャシディ、
    ハイディ・ブリュールセイヤー・デヴィッド、レイノール・シェイン、ジャン=ピエール・ベルナール

クリント・イーストウッドって、優れた監督だと思う。彼の監督作を全て見たわけではないが、面白いものが多い。なんというか、演出がオーソドックスという気がする。怖い映画は怖く、楽しい映画は楽しく見せる、という当たり前の事に長けた人だという気がするのだ。小手先のテクニックや理論に頼らず、目の前にある物を的確に表現する、というか。これ、とても大事なことだと思う。

さて、この『アイガー・サンクション』もクリント・イーストウッドの監督・主演作だ。はっきり言って面白い。それで何が悪いのか。面白い映画を作る、というのが監督の最大の仕事なのだ(笑)

見たのはかなり前の事だから、記憶もかなり曖昧になってるけど、イーストウッドが演じるのは大学教授でありながら殺し屋、という役。昔って、こういう設定多かったなぁ(笑) で、彼はとある人物の暗殺指令を受け、その人物が参加するというアイガー登山隊に参加する。顔も名前も分からない。分かってるのは、足が悪いらしい、ということだけ。で、指令を受けたイーストウッドは、旧友のジョージ・ケネディを誘い、トレーニングを開始する。そして、任務の日は近づき彼らはアイガーへ出発する。果たして、イーストウッドは任務を無事遂行出来るのか? と、あらすじはこんな感じ。とにかく、実際にアイガーでロケをしたという映像が圧倒的に素晴らしい。スタントなしで登山シーンに臨んだというイーストウッドも熱演だ。意外なラスト(考えようによっては意外ではないのかも)もいい。サスペンスとしてもアクションものとしても、実に見応えのある傑作といえる。レンタルには、あまり置いてないらしいのが残念だ(笑)

印象的なシーンは、本筋とはほとんど関係ないが、イーストウッドとジョージ・ケネディがトレーニングをしていて、実際に山というかやたらと高い岩(としか言いようがない)に登るのだが、山頂に着いた時、ジョージ・ケネディが「ビール飲みたいね」と言う。で、イーストウッドが「ここにあるものならね」と言うと、「実は持ってきてるんだ」とジョージ・ケネディが言い、イーストウッドのリュックからビールを取り出すのだ。「なんだよ、俺にこっそり運ばせたのか」と苦笑いしながら、イーストウッドとジョージ・ケネディは岩の上でビールを飲む。その姿を映しながらカメラが徐々に引いていって、周りに何もない砂漠の全景を映し出す。その真ん中の岩のてっぺんにいる2人が小さくなっていく。なんというか、リポビタンDのCMにも、こんなのがあったような気がするが(笑)、さすがアメリカやっぱり広い、とミョーに感動してしまった場面だった。ほんとに、関係なくてすいません(爆)

音楽は、この当時売れっ子ナンバーワンだったジョン・ウィリアムズ。ジャズのエッセンスも交えたいいスコアを書いてます。それと、共演のジョージ・ケネディも、この頃色々な映画に出ていたような記憶がある。売れっ子だったんだな。

とある映画サイトの掲示板で見かけたのだが、この映画を評して「単に山に登らせたかっただけ」と言ってる人がいた。いやいや、それを言うなら『クリフハンガー』の方がひどいよ。一緒にしないで欲しいなぁ。ま、いいや、『クリフハンガー』の悪口は、いずれたっぷりと書かせて頂くことにしよう(爆)


2007.1.26


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ダ・ヴィンチ・コード(2006年・アメリカ)
THE DA VINCI CODE
監督: ロン・ハワード
音楽: ハンス・ジマー
出演: トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、アルフレッド・モリナ、ジャン・レノ、
    ポール・ベタニー、ユルゲン・プロフノウ、エチエンヌ・シコ、ジャン=ピエール・マリエール

昔、モナリザが日本に来るということで、やたらと盛りあがっていたのを覚えている。
なんで、あんな絵にみんな夢中になるのだろう、と子供心に思っていた。
まあ、絵心とか、芸術には無縁なので、モナリザがそんなに凄い絵なのかどうかはわからないけど、ダヴィンチには少なからずとも興味があった。
ルーブル美術館や、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ協会には是非訪れたい、と思っている。

んで、ダヴィンチ・コードである。
小説は読んだ。色々な薀蓄が随所に盛りこまれていて、飽きずに一気に読んでしまった。
映画化され、ルーブルでロケをやる、と聞いたときは、これは映画館に行かねば、と思った。
映画館の大画面で岩窟の聖母とか最後の晩餐とかを見てみたかったのだ。
しかしながら、ルーブル内の絵は、ワンカットとか、バックにすーっと流れていくだけで、
実に残念だった。
まあ、しょうがない。

大ヒットした小説の映画化ということで、いつもながら、原作ファンからは短すぎるとか、あのくだりが無いのは納得いかんとか、なんでトムハンクスなんだ、とかクレームがつくし、原作を知らないひとからは、ストーリーがわかりにくいとか、意味がわからない言葉が続々と出てくるからわからん、とかいう批判がわんさかである(苦笑)
まあ、双方の言い分はわかる。
しかしながら、エンターテインメントとしての一作品としては、そんなに批判を受けるような出来の映画ではないと思うのだが・・・
確かにある程度の知識は必要な映画かも知れない。けど、それを批判のメインにしているような文章を見るたびにあきれている。

そこでだ。(なんやねん、いきなり)
映画公開前にTVでやたら特集番組が組まれ、その内容もほとんど、映画のネタばらし三昧な作り。原作つきとはいえ、如何なものか。
まあ、いつものことだけどマスコミのアホさ加減はどうしょうもない。
とにかくダヴィンチコードの謎にせまる、みたいな番組を乱発し、わけのわからん芸能人を登場させ、イエスの隣にいるのは女性ですよね、女性にしか見えないですよね、なんてアホな発言をさせたり、シオン修道会の総長リストなんてとっくにニセモノとわかっているのに、すげー、なんていわせてみたり、とそのお粗末加減と、話題には乗ってさっさと捨て去る手口はもうあきらめるしかないのだろうな、と思う。
・・・・・・
・・・・
・・

とはいえ、そういう番組を結局見ている私はマスコミに踊らされているお馬鹿さんだ(爆)。
っていうか、映画のレビューになってませんな(誤爆)。


<いまちさん 投稿日2007.2.2>


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魂萌え!(2006年・日本)
監督: 阪本順治
音楽: coba
出演: 風吹ジュン、田中哲司、常盤貴子、加藤治子、豊川悦司、寺尾聰、藤田弓子、由紀さおり、今陽子
    左右田一平、なぎら健壱、林隆三、三田佳子

読んでから見るか、見てから読むか、なんてキャッチコピーが昔あったけど、僕の場合“見てから読む”というのはほとんどない。映画自体見る事が少ない、というのもあるが、原作がある場合、そっちの方が面白いに違いない、という刷り込みがあるからである。そりゃそうでしょ、元の小説(マンガ)が面白いから、映画化しようという気になるのであって、つまらない小説なら映画化されないし、こちらも読む気にはならない。もちろん、面白いけど映画向きではない、というのもあるが、基本的には先に発表される小説の方が、映画より面白くて当たり前なのだ。とはいえ、時々原作を読まずに、先に映画を見る事もある。随分前に見た『亡国のイージス』もそうだったし(こちらは原作まだ読んでない)、この『魂萌え!』も原作を読まずに映画を見た。そして、その後で原作も読んだ。結論から言うと、どちらも面白い。内容は随分違うけど。但し、ストーリーそのものには影響はない。

ここ数年、ひたすらダークな小説を書いている桐野夏生の原作によるものだが、こちらは別にダークではない。風吹ジュン演じる59歳専業主婦の敏子は、3年前に定年退職した夫が心臓麻痺で急死し、葬儀が終わった直後、夫の携帯にかかってきた見知らぬ女の電話から、夫に10年来の愛人がいた事を知る。長年連れ添った夫が家の外では自分が知らない世界を持っていた事にショックを受け、それに追い討ちをかけるが如く、息子から遺産相続に関して無理難題を言われてキレてしまい、家を飛び出してカプセルホテルに駆け込む。ここまでは、宣伝などでも紹介されているので、知ってる人も多いだろうけど、本当に面白いのは、実はここから先なんである(笑) ホテルで知り合った老婆や支配人と関わりを持ち、また夫の友人と関係を持つなど、夫の死を契機に彼女の身辺は急激に変化していく。そんな中で、彼女は自分も変わろうと、新しい生活に踏み出していくのである。ま、要するに、初老女性の“自分探し”の物語だ。しかし、それで片付けてしまっては身の蓋もない。僕自身が“自分探し”という言葉が嫌いなせいもあるが(笑)、夫亡き後一人で生きていく決心を固めた敏子が、一人で生きていく為に自分を変えていこうと奮闘する、と言ったほうがいいかも。実際、物語が進むにつれ、敏子の表情から何から徐々に変化していくのが分かる。ラスト近く、なぜか映画館の映写技師を目指して、ベテラン技師に弟子入りする敏子の吹っ切れた表情がよろしい。見ている人は、皆敏子を応援したくなってしまうのではないかな。

前述したけど、小説に登場するエピソードのいくつかはカットされていたり、また逆に小説にはない設定があったりもするが、敏子を追いながらストーリーが進んでいくのには変わりはない。風吹ジュンは力まず好演だと思うし(それにしても、この人がこういう役をやるようになったんだな、と思うと感慨深いものがある)、豪華な脇役陣もいい。特に常盤貴子、豊川悦司、林隆三あたりがいい。三田佳子も全く違うイメージの役で(愛人の役である)、新境地を開いた感もある。役者たちがいい演技をして、演出は実にオーソドックスで、最後まで飽きずに見れる。風変わりな音楽もいい。しかも、劇場で見る映画ならではの、良い意味での“重み”もあり、やはり二時間ドラマとは全然違う“映画”として鑑賞できる。やや地味かもしれないし、客を呼べるかどうかは分からないけど、こういう映画をコツコツ作っていけるなら、日本映画も捨てたもんじゃない。

関係ないかもしれないが、映画の中では、携帯電話が非常に重要なアイテムになっている。というか、現実でも非現実でも、携帯電話なしの生活などあり得なくなっている、というのを実感する。この『魂萌え!』の場合、もし携帯がなければ、敏子は愛人の存在をどうやって知るのか。10年前・20年前なら、似たような内容でも、かなり違ったものになったのだろうな、と考えると、なんとなく面白い(笑) あと、この映画に限らず、初老の女性が新しい環境に飛び込んでいく象徴として、携帯電話を購入する、というのがよく使われているが、こういうのもいずれリアルでなくなるのだろう。その時には、どんなアイテムが登場するのか? ちょっと楽しみ(笑)

2007.3.18


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ドリームガールズ(2006年・アメリカ)
DREAMGIRLS
監督: ビル・コンドン
音楽: ヘンリー・クリーガー
出演: ジェイミー・フォックス、ビヨンセ・ノウルズ、エディ・マーフィ、ジェニファー・ハドソン
    アニカ・ノニ・ローズ、ダニー・グローヴァー、キース・ロビンソン、シャロン・リール

僕には珍しくミュージカルである(笑)

いや、しかし、今年上半期の話題を独占したのはこれではないか、とすら思われる。この『ドリームガールズ』が日本で公開されたのが2月だが、周囲の人たち(ほとんど洋楽好きなんだけど...笑)の間では、すこぶる評判がいい。あまりの評判の良さに期待して見に行ったが、やはり面白かった。ミュージカルだけど面白かった(爆)

一言で言ってしまうと、アメリカの片田舎でスターを夢見る少女たち3人が、“ドリーメッツ”というグループを結成し、ショービジネスの世界でのし上がっていく姿を描いた映画である。モデルとなっているのは、ご存知シューブリームスだと言われている。という事はビヨンセがダイアナ・ロスか。ジェイミー・フォックスがベリー・ゴーディオJr.で、エディー・マーフィーがマービン・ゲイという事になるのかな。と、実在の人物やエピソードと重ね合わせて見ると、「なるほど」という部分も多く、なかなか楽しめる。特に、エディー・マーフィー演じるジェームズ・アーリーというシンガーが、新しいサウンドを模索してデモを制作するのだが、それをジェイミー・フォックス演じる社長に「メッセージは必要ない」と一蹴されてしまう場面などは、実際にマービン・ゲイやスティービー・ワンダーがモータウンと対立したという話を思い出してしまった。他にも、それらしいエピソードが散りばめられているので、洋楽好きは思わずニンマリだろう。

この映画を見た皆さんがおっしゃっているけど、とにかく音楽がいい。というか、役者たちの歌が見事だ。って、ミュージカルだから当たり前なんだろうけど(笑) アカデミー助演女優賞を受賞したジェニファー・ハドソンはもちろんだし、ビヨンセは元々歌手なんだから(デスチャだっけ?)当然なんだけど、ジェイミー・フォックスもエディー・マーフィーも実に素晴らしい。あ、今思い出したけど、エディー・マーフィーって、随分前にリック・ジェームスのプロデュースでレコード出してたっけ。そうか、皆上手くて当たり前なんだ(爆) でも、彼らのパフォーマンスの素晴らしさが、この映画をひたすら見応えのある、魅力的な作品に仕立てている。はっきり言うと、劇中で使われる曲自体の出来はまぁまぁ、という感じなんだけど(笑)、ストーリーに合わせて効果的に使われるのと、前述したように役者たちが見事なので、実に素晴らしいものになった。歌が使われる場面にしても、フツーのミュージカルみたいに、突然部屋の中や道端で歌いだしたりするのではなく、レコーディングとかステージとか、歌を歌っても不自然でない形で使われているので、ミョーな違和感がない。ミュージカルには抵抗ある僕が抵抗なく見れたのも、そこが原因だろう。

前評判通り、ジェニファー・ハドソンがいい。“ドリーメッツ”の3人の中では一番上手くて、ずっとメインボーカルを務めてきたのに、ルックス重視でビヨンセにその座を奪われるという、いかにも、な役であるのだが、要所要所で説得力ある歌を聴かせる。圧巻は、グループをクビにされ(フテ腐れて勝手な行動をとったせいなんだけど)、愛する男にも見捨てられる時に「And I'm Telling You I'm Not Going」を熱唱するシーン。これは実に素晴らしい。金縛りに遭うくらい凄い。決して容姿端麗とは言えない女が、自分を捨てないでくれ、と愛する男に訴えかける。物凄い説得力だ。正にスクリーンに釘付け。歌が終わった時、思わず拍手してしまいそうになった(笑) 聞くところによると、ブロードウェイで同じ役を演じたのはジェニファー・ホリデイで、彼女もハドソンとは比較にならないくらい素晴らしかったそうだが、そんな事知らんでも素晴らしい。ハドソンはこの一世一代の熱唱だけでアカデミー賞を獲ったのでは、なんて思わせる。熱唱もむなしく男は去っていくが、オスカーは手にしたという訳だ。あと、「Love You I Do」を歌う場面もいい。とても軽やかな曲でハドソンが実に気持良さそうに歌ってる。エンドタイトルで、出演者が紹介される時、最後に“And introducing”のテロップと共にハドソンは紹介されていて、期待の大きさが分かる。彼女は決してビヨンセの脇ではない。

そのビヨンセもよろしい。最初は地味なんだけど、メインに指名された途端輝き始めるのが素晴らしい。ただ、ハドソンやジェイミー・フォックスあたりの役どころと比べると、あまり主張しない存在、という感じもするが。けど、後半、ジェレミー・フォックスのもとを離れる決心をした彼女が、レコーディングルームの中で、窓の向こうにいるフォックスに対して「Listen」を歌うシーンは感動的。あやつり人形が自分の意志を持った瞬間と言おうか。先の、ハドソンの「And I'm Telling You I'm Not Going」の熱唱シーンと共に、2大ハイライトと言っていいのではないか。

いわゆる“業界物”という事で、もっとドロドロした部分もあるのかと思っていたが、意外とあっさりしてる感じで、それはそれでいいと思う。ストーリーも特筆するものはない。けど、それを補って余りあるのが、役者たちによるパフォーマンスと音楽である。正しくエンタテインメントの極致。飽きずに最後まで見れるし、また何度見ても楽しめる映画だろう。それはとても素晴らしい事だと思う。どう見ても、ジャクソン5としか思えないキッズ・グループが出てきたりするのも楽しいしね(笑)


2007.4.15